ラジオから花が咲くの歌が流れてきます。
あぁ、そうか今日は3月11日だ。
押し寄せる津波で建物がなぎ倒されるテレビの映像は衝撃的で何かの間違いかと思いました。
人でごった返しになった新宿駅。
あの日、わたしは春休み中の大学生。夜行バスで実家から東京に帰ってきた朝。
昼、街ぶらしようと神保町を歩いていました。
そこで地震が発生。
こんなに酷いことになるなんて想像できず、呑気に街散策を続けていました。
神保町の本屋さんを巡り、疲れたから帰ろうと駅に向かうと電車が止まっていました。
仕方ない、ひと駅歩こう! と隣駅へ。
すると次の駅も電車は動いていません。
街にはたくさんの人が足早に歩いて何処かへ向かっています。
ただならぬ様子に早めに新宿駅に戻ろうと感じました。
神保町から新宿駅へ。その頃はガラケーで道なんてわかりません。
街中の新宿方面の看板を頼りに歩きます。
16時過ぎ、やっと新宿駅に辿り着きホッとしたのです。さすがに新宿駅なら電車が動いてるだろう。
しかし、駅は人でごった返し、駅員さんがマイクでいろいろ案内しています。
座り込んでしまっている人もいます。
ここで初めて、この地震のヤバさに気づきます。
電車が動いていないならバスだ! 既にタクシーは行列。
なんとかバスに乗り込みます。
だけど、待てども待てどもバスは進みません。
それもそのはず、信号が動いておらず大渋滞に。
1時間経っても、新宿駅から歩いて15分ぐらいの場所までしか進んでいないのです。
わたしはバスに座れていたのですが、立って乗っていた人は辛いと思いました。
少しずつは進みますが、次々と人が諦めて降りて行きます。けれど、期待を持って乗ってくる人もいます。
わたしは新宿駅から家への帰り道がわかりません。
おそらく歩けば帰れる距離。
たまたま隣に座ったマダムらしき女性が降りて歩いた方が早いかもしれないと話をしました。
そして、偶然家の方面が一緒でした。マダムは道を知っているとのこと。
わたしはそのマダムとバスを降りて歩くことにしました。
振り返るとまだ暗くなった新宿駅が見えます。
19時ぐらい。マダムと歩きます。
おニューのヒールが8センチもある靴を履いて歩きます。
今思うとよく靴づれをせずに歩けたと思います。
わたしの家は青梅街道沿い。歩けば家に着くはず。
マダムと別れて30分ほど。ようやく最寄り駅に到着。
はぁ〜疲れた。今日はよく歩いたからオリジン弁当を買っちゃおう! と人生初のオリジン弁当を買ったのです。
携帯は電池切れで充電して、両親に連絡しました。
わたしの無事はTwitterで呟いたのを見て知っていたみたいです。
22時オリジン弁当を食べながら、あの衝撃的な映像を見たのです。
名前も知らないマダム。世の中、捨てたもんじゃない。人との助け合いを感じました。
次の日、バイトへ。電車は動いていました。
しかし、バイト先には誰もおらず閉鎖されています。当分営業しないと聞き、二度とそのアルバイト先に行くことはありませんでした。
スーパーもコンビニも節電で薄暗く、物流がダメになっており、陳列棚はガラガラ。
こりゃ、東京にいても何もできないと思い、残りの春休みも実家に帰ることにしました。
新幹線に乗るために品川駅へ行くと。街が死んだように節電で暗がりになっています。
一方、新幹線で岡山駅に着くと駅前のネオンの看板が煌々と光っており、同じ国とは思えないぐらいでした。
関東と中国地方では電力会社が違うので節電するメリットはないので仕方ないのですが。
実家に帰るとあっけらかんとした両親。心配はしてくれていますが、あの深刻な状態、街から光が無くなった物理的な暗さ、気持ち的な暗さ、経験していないと同じ気持ちにはなれないのだと思いました。
同じ気持ちにはなれない。
それは東北で被害に遭われた人とわたしが同じ気持ちにはなれないということでもあります。
ですが、その気持ちには寄り添える人でありたいと思います。
あのときの経験と気持ちを忘れないようにしたい。
トルコで発生した地震、やはり同じ気持ちにはなれないですが、どうか一日も早く復興してもらいたいです。
本日もお読みいただきありがとうございます。